ロックレスとロックダウン

ロックレス式パーキングを支えるのは性善説か、経済性か?自粛要請にも垣間見えるその価値観。

最近増えている「ロックレス」パーキング。

ロック板が無いコインパーキングを見かけたことはあります?「ロックレス式」と言います。ロック板とは、駐車した後に、車の下や前にせり出してくる板のこと。ロック板があると、ロック板を動かす機械部分の出っ張りを避けて停めるのがめんどくさかったり、狭い道に面したパーキングに大型の車を停める場合にも停めやすく、一度利用するとその利便性が実感できます。このロックレス式パーキングは、運営する会社にとっても、ロック板に車がぶつかって壊れるトラブルが無くなったり、設置やメンテナンスのコストを減らすメリットがあるようです。もしかしたら工期も短いのかもしれません。利用したことがある方なら分かると思いますが、気になるのは、万一料金を支払わなかったら、どうなるのかという点です。ロック板がないということは、そのまま出庫できてしまうわけです。その瞬間に警報が鳴るとは思えませんし、もし鳴ったところで、すでに手遅れのような気がします。踏み倒す人はいるのでしょうか?

料金を踏み倒されるリスクは大丈夫?

一般的に、コインパーキングをめぐっては、さまざまなトラブルが考えられるでしょう。たとえば大径タイヤをはいたオフロード系の車であれば、ロック板をそのまま踏破できそうです。その現場を目撃したことがありますが、ドライバーはロック板の存在を忘れてついうっかり車を動かしてしまったようでした。また、車高が低かったりスポイラーを装着した車は、ロック板に車体が接触して破損することも考えられます。ロック板式パーキングでは注意喚起されているはずです。また、ロック板が上がらないように、ロック板の上にタイヤを乗せて停めている車も見たこともあります。さらに、センサーが感知しない位置に停めるとか、ロック板をよけて停めたがセンサーが働いてロック板が上がり、そのままになっている駐車スペースとか。めったにないとしても、そのような故意の行為があることが前提のはずなのに、なぜロックレス式が存在するのでしょうか?また、踏み倒しのリスクヘッジはどのようにされているのでしょうか?

ナンバー照会というリスクヘッジはあるけれど。

調べてみましたが、ロックレス式パーキングは、ロックフリー式やフラップレス式とも言うようです。不払い出庫の被害を受けた場合は、パーキングに設置したカメラで記録した車のナンバーについて情報開示を請求すれば、車の所有者がわかるようです。警察でなくとも照会でき、国交省に申請して審査が通れば、自動車登録情報を管理している協会を通じて、有料で提供される仕組みとのことです。ちなみに、自動車登録情報に個人情報保護法は適用されません。そこで判明した不払い車の所有者に請求が行くのでしょう。さらに放置していると何らかの法的措置がなされるのだと思います。このように、踏み倒しへの対策はされているようですが、ナンバー照会は有料でもあり、追跡して請求するコストをかけても成り立つのでしょうか?想像の範囲ですが、ロック板を設置して長期間にわたって管理していくコストに比べて、ナンバーを照会するコストや、万一踏み倒されたままの損益の方が低いのでしょう。

そのココロは性善説か?コストカットか?

そこで、このシステムのコンセプトですが、その根底に性善説があるのか、それともコスト面でのメリットの追求があるのか、または、その両立なのか、どうなのでしょうか?性善説を出発点にしたシステムだったがゆえに、結果的にコスト上のメリットを生むことができたのか。一方、コストの追求が出発点だったが、結果として人を信じるシステムとしてその価値を高めることができたのか。ロック板が「有る」パーキングと「無い」パーキングという外形上の差ではなく、ロックレス式パーキングの存在は、人を「信じる」システムと「信じない」システムという、社会への向き合い方の差が、どのような効果を生むのかというテーマも提起しています。スーパーなどにおいてもセルフレジ化が進む一方で、エコバッグ万引きも話題になりました。店頭からモノを盗むという、しかも捕まれば即犯罪者になるというリアルな実感を伴う万引きと比べると、駐車サービスという、いわば目に見えるモノではなく、おそらくその場で捕まるリスクも低い、駐車料金を踏み倒すという行為の方が、心理的なハードルは低いと思われます。しかしそうならないのは、やはり「信頼」という規範が機能していると言えるのでしょうか?

信頼を目的にするか?手段にするか?

一つは、利用者を信じることで、利用者の行動を促すソリューション。そしてもう一つは、コスト削減のために、信じているというメッセージを発信してみせる戦略。両者の見た目は同じでも、その根底にある、実施者が世の中をどうとらえているかという価値観は異なります。それは、信頼を目的にするのか、信頼を手段にするのかの違いでしょう。それはたとえば、コロナ下の自粛にしても、「国民への信頼」という価値観に基づいて国民の良識を発動させるのか、「政策コストをかけない」という価値観に基づいて国民の良識に頼るのか、という違いに似ていると思います。そして、一見同じゴールを目指しているかのように見えて、長い目で見れば、両者のとるコースは確実にズレていくはずです。