マンスプレイニング

上から目線の独善トークが、マンスプレイニング。広告コミュニケーションのマンスプレイニングは回避できるか?

男の説教、マンスプレイニング。

一見物知りだけど説教くさい人、いますよね。「マンスプレイニング」と言います。男の「man」と説明の「explain」の合成語です。直訳すると、ズバリ「男の説明」。ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」の中には、二つの言葉をかばんに詰め込んだという意味で「かばん語」として出てきます。マンスプレイニングとは、物知りであることを自信過剰に押し付けるわけですが、実は無知の裏返しなのかもしれません。知っていることは語れるけれど、知っていることしか語れない。そのため、知識が浅い人ほど、マンスプレイニングはやっかいです。ひたすら同じことの繰り返しだったり、話題が進んで行っても、自分が知っていることに話を戻すので、実りある会話に発展しません。そういう人は、えてして自分の知識を披露したくてウズウズしているので、会話の中に何か糸口を見つけると、そこにパッと食いついて講釈を始めるわけです。そのような人に限って、みなが驚くような未知の情報など持ってはいません。会議の場合などで、その人が語りだすと、そこで停滞してしまいます。討論番組などでも、議論の流れに乗って発展させていくのではなく、中断してでも自分の知識や意見を語りだす人がいますが、それもマンスプレイニングのひとつと言えるでしょう。

逃げられない状況で始まるマンスプレイニング。

それならば、その人を遠ざけるとか、自分が離脱してしまえばいいようなものですが、そうできない人間関係の中で語られるのが、マンスプレイニングというものです。広告であれば、そう思った瞬間にチャンネルを変えたり、スキップされてしまいます。広告の場合で言うと、「これからは何々の時代だ」とか「知らないので教えて差し上げましょう」というようなメッセージを発信すると、それは余計なお世話と受け取られてしまうことがままあります。同じことを言うのであっても「これからは何々の時代だから、いっしょに考えていきましょう」とか「それを知って、あなたならどうしますか?」と言われれば、また印象は違うでしょう。広告において、消費者が知らないと思われるモノやコトを伝えようとする場合、企業というただでさえ偉そうな存在から「教えてあげましょう」と上から目線で言われると、発信者にそんなつもりは無くても、消費者にとってはマンスプレイニングととらえられがちです。

広告では、マンスプレイニングになることを避ける。

そこで、国民的なタレントや親しみのあるキャラクターに語らせたり、逆に識者や専門家に言わせて、客観性や説得力を持たせることを考えたりします。また、いっそ実在の企業側の人間に語らせたりします。「技術って、人柄です。」という日立製作所の名作がありましたが、これは実在の技術者を起用したことが功を奏したと思います。しかもみなさん実直な感じでセリフがヘタでした。これがモデルや役者さんを使うと、妙にドキュメンタリーチックな雰囲気が漂い、結果としてウソっぽくなったりします。その点、東京ガスの家族の日常を描いたCMシリーズは良くできています。ジェンダー論的なことはさておき、ストーリーも演出も素晴らしいのでが、創作であるという記号になる有名な役者さんを起用したところが成功の因でしょう。これは虚構ですというフレームをしっかり作った上で、共感のドラマを作り上げているわけです。このキャスティングがもし無名の役者さんだったなら、リアルに演じるほど押しつけがましい読後感をもたらしたかもしれません。これは実話です的なストーリーで、役者さんがリアルに演じているWEB動画CMを見ますが、ちょっとどうなんでしょう。ともあれ、広告として企業が伝えたいことは、時に啓蒙的なこともあるでしょう。実在の人物をキャスティングして本物のリアリティーのある世界で伝えていくか、虚構の記号となる役者さんを起用してしっかり世界を作り込んでいくか、企業のマンスプレイニングに陥らない作法が必要となるでしょう。