共助が難しい時代に

新しい日常の中で進む、自助と公助のオンライン化。「ふれあい」がベースの共助に可能性はあるのか?

コロナで変わった、地域共同体の活動。

今年は、みんなが楽しみにしていたお祭りも、さまざまな地域のイベントも中止になってしまったことと思います。地域イベントの中でも、お祭りは、神輿や屋台など、そもそも人と人との身近な「ふれあい」を基調にしたイベントですので、フィジカルディスタンスという対応自体が成立しないコンテンツでしょう。掛け声もかけずに神輿を担ぐというのは、ちょっと想像できませんし、お好み焼きの屋台にソーシャルディスタンスを空けて並び、あらかじめパックされたお好み焼きを黙って粛々と購入し、テイクアウトで味わうというのであれば、もはや屋台である必要はないも同然でしょう。盆踊りくらいが開催できる地域イベントの限界なのでしょうか?他にも、コロナによって喪失または後退したり、大きく様変わりしていくコンテンツは多く、さらに増えていくかもしれません。

「自助」「公助」のはざまで光が当たらない「公助」。

その一つが、地域などの共同体におけるコミュニケーションのあり方でしょう。コロナへの対策は、国や自治体の政策や事業など、大きな枠組みの取り組みである、いわば「公助」と、一人一人の個人が日常の中で心がけ行動する「自助」の観点では、よく論じられているところです。「公助」の視点では、たとえば国民生活を支えるための財政出動や国債発行の是非とか、経済を回すための公共事業のあり方などなど。さまざまな給付金や補助金、GOTO事業も「公助」の一環と言えるでしょう。一方、「新しい日常」の推進は、いわば「自助」というレベルでの取り組みと言えます。しかし「公助」と「自助」のはざまで、隣同士で助け合うといった、中間規模の対応である「共助」についてはあまり聞きません。もちろん当事者によって模索はされているのですが、世間の関心事としては、あまりクローズアップされていないのが現状でしょう。これは、震災などの自然災害の時と違う点かもしれません。自然災害の場合は、「自助」「公助」に加えて、むしろ「共助」の重要さが強調されることが多いのではないでしょうか。被災しないため、そして被災してしまった際の個人の備えという意味での「自助」。そして被害を未然に防ぐための国土強靭化や、復興のための事業という意味での「公助」。しかし、被災者に対する地域での支え合い、ボランティア活動など、むしろ「共助」が脚光を浴びていたと思います。

「ふれあい」のプラットフォーム、「共助」の難しさ。

とはいえ、自然災害の時と感染症が発生した時の「共助」のあり方が違うのは当たり前でしょう。「共助」には、どうしてもface to faceというか、フィジカルな接触が伴わざるをえないからです。地元のお店を地域で応援しようと、テイクアウトや出前サイトを独自に立ち上げたりすることも広い意味で「共助」と言えるでしょう。また、東京都の文京区は区の事業として立ち上げていますが、これは「公助」の範囲です。しかし、地域共同体の「共助」の対象として最も大事なのは、高齢者や障がいを持っている方に代表されるような、「自助」だけでは取り残されてしまう可能性がある人たちでしょう。その人たちに対しては「ふれあい」や「つきあい」がコミュニケーションのベースになります。高齢者はオンラインのコミュニケーションが苦手であったり、そもそも手段を持っていないこともあるでしょう。しかし、「お元気ですか?」と訪ねていくのも気がひけます。そのような意味でも、地域共同体を支える中間組織による活動の難しさがあるわけです。実際に、老人会の活動が唯一の生きがいと言っていた方で、ここのところ元気がない方がいます。やはり、「ふれあい」によってストレスを発散していたのでしょう。町内会や老人会は、本来オフラインを前提として構築されたネットワークです。町内会ではいまだに回覧板を回しているわけですから。これを機に、できるところは変えていく試みが必要でしょう。しかし、基本的なプラットフォーム自体は変えられない、変えていくにしてもかなりの時間が必要だと思います。というか、本当に変えてしまっていいのか、という視点もあるわけです。町内会など地域に基盤を置く共同体はその典型ですが、そもそも「オフラインであること」に存在価値があった社会活動は、今後どうなっていくのでしょうか?オフラインでなければ成立しない、オフラインであることに価値があるコミュニティは、無くなってしまう運命なのでしょうか?コロナ禍が永遠に続くわけではないでしょうが、コロナ的な災厄が今後も襲ってくる可能性はあります。それを前提にすると、AIやロボットなどの技術革新を活用するにしても、オフラインであることの価値を活かしていくことは、はたして可能なのでしょうか?

オンライン=善?オフライン=悪?

恐れるのは、オンライン化できない分野や組織は、この際、淘汰されてもしょうがない、淘汰されるべきだという、いわばデジタル新自由主義とでもいうような社会や、それを後押しする政策が生まれてしまうことです。「オンラインが善、オフラインは悪」というような極端な発想にとりつかれることです。そうならないためにも、「共助」の現場でも、活動の内容に合わせて、できるところはオンライン化するチャレンジは必要です。そうしないと「共助はオワコン」とみなされて、どんどん廃れてしまうでしょう。その場合でも大事なのは、オンラインのリテラシーが低い人が一人でもいる共同体の場合は、その人がいる限りは、オフラインのコミュニケーションも手間がかかるが残しておく。そしてその人が、なるべく早く順応できるように皆で支えていく、という考え方だと思います。「一人も取り残さない」という、共同体ならではの「包摂」の想いを失っては、もう「共助」の意義と矛盾してしまうからです。オンライン化によってつながる人間関係のみを残して、オンライン化できない、または苦手な人間関係を切り捨ててはいけないということです。あるべきオンライン社会とは「オンライン関係でつながる=オフライン関係はカットする」とスイッチすることではないからです。Zoomも使えない人とは付き合えない、などと言ってはいけません。それは友人であっても家族であっても同じです。ちなみに友人も家族も、「共助」で支え合う共同体です。共同体が置かれている環境や、構成員のオンラインリテラシーはさまざまですので「すぐにオンライン化できる」「オンライン化するが時間がかかる」「オンライン化は将来的のできない」さらに「あえてオンライン化はしない」と、その活動が持っている価値に合わせて対応していくことが大事であると思います。

オンライン、メリットもあればデメリットもある。

ビジネスの場面でも、オンラインにすることで効率性が高まる場合もあるでしょうし、低下する場合もあると思います。例えば、どんなにクリエイティブな発想が素晴らしい人であっても、もしオンラインのコミュニケーションが苦手であれば、その声は埋もれてしまう危険があります。経験から言っても、会話のトーン&マナーはボソボソしていて決して上手くはないけれど、その発想や企画力は素晴らしいというスタッフはいます。オンライン会議での発言マナーにばかり気を取られていると、そういう人の才能が発揮されないことがありうるわけです。また、プレゼンの現場でも、オンラインのプレゼンで伝わりやすい企画が有利になったり、どうしてもプレゼン現場の体温は低くなるでしょうから、プレゼンテーターのパフォーマンスというか技は封じられる傾向になっていくでしょう。優れたプレゼンテーターやクリエイティブデイレクターの資質が変化していくのかもしれません。また「会えば必ず成約」を誇っていたスーパー営業と言われていた人は、今後、どのようなコミュニケーションをとっていくのでしょうか?

コロナに負けない「共助」の力を。

ビジネスや行政において、オンライン化やデジタル化のようなコミュニケーションの変容は、「進化」として語られるでしょう。そんな「オンライン化=コミュニケーションの進化」ととらえられがちな社会の変化の中で、「共助」におけるコミュニケーションの進化は、どのような姿をとるのか?どこを目指していけばいいのか?お手本は何なのか?コロナの時代における「共助」の真価を発揮できる新しいコンセプトやコンテンツを考えていく時が来ていると思います。「共助」のチカラは、コロナに負けない社会にとって、必要不可欠なソリューションだからと信じるからです。